『「オバサン」はなぜ嫌われるか』著者:田中ひかる 集英社新書

「オバサン」の定義を細部まで突き詰めることで、今までの日本で形成されてきた女性に対する差別的眼差しを明らかにしている本です。

 

私の中で1番衝撃だったのが、妻が夫の浮気と賭け事への散財を理由に離婚と財産分与を求めて訴えた際の、1955年5月6日の東京地裁判例です。ちょっと長いですが、引用を載せます。

 

「原告(引用者注・妻)が、年令満五十歳で、女性としては既に、その本来の使命を終り、今後は云わば余生の如きもので、今後に於いて花咲く人生は到底之を期待し得ないと考えられるのに反し、被告(引用者注・夫)は、漸く令四十九歳に達したばかりで、その前半の人生が順調であったのに反し、終戦後は、困難な生活が続き、妻たる原告にすら見限られるような失態を演じつつも、その体験を深め、人間として漸く成熟し来たったと認められるので、男子としての真の活動は、今後に於いて、期待し得られる事情にあること。」

 

50歳を過ぎた女は花咲くことはないと断言していて恐ろしいこと甚だしいです。人の人生に対する尊厳や価値の重さが男と女で違っていたことが司法の場でもまかり通っていたことに驚きです。これが今からたった67年前の判例

 

さらに、時を経て故石原元都知事が「石原慎太郎都知事吠える!」『週刊女性』2001年11月6日号で「女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です」という言葉を発しているのも悲しくなる現実です。

 

著者の田中ひかる氏が指摘するように、「ここには明らかに〈女は産んでこそ存在価値がある〉という信条があり、これが産めなくなった女性、つまり中高年女性に対する蔑視の要因の一つとなっている」(P.62 l.9〜10)のです。

 

また、今では生殖機能の差と職能は別物であるのは当然のことですが、かつて進化論者たちが唱えた科学的根拠により女性は「劣るもの」、「産み育てるもの」としての性別役割分業を強いられ社会的な発言権は第二次世界大戦後までありませんでした。表面的には1945年の敗戦でファシズムではなくなった日本ですが、価値のないものを排除していく思想が石原元都知事の発言にはっきりと現れています。都知事という、国政にも影響を与え得る人がファシズム的思想を持っていたことに悔しさと恥ずかしさを改めて感じています。女性を劣ったものとする蔑視思想がすぐには拭えないことがはっきりと分かる事件として忘れるわけにはいかないので、私はいつまでも覚えていようと思います。

 

この本が出発されてから10年が経ちますが(2011年出版)、未だに「オバサン」という言葉には「女を捨てた人」、「図々しい人」といった蔑視の意味が含まれています。私も「オバサン」という言葉を他人に使うことにためらいがあります。今までなんとなく使うのを躊躇していた言葉の背景に負の歴史が刻まれていたこと、無意識のうちに女性の地位の低さを受け入れてしまっていることに気付きました。

 

一方で、「オジサン」にも「気が利かない」「無神経」のような意味で使われはじめているようにも思います。スーパーのレジの人がおじさんで、お弁当に付けるお箸の数を間違えたら「オジサンだからね〜(汗)」と、思ってしまう自分がいます。

 

いずれにせよ、高齢者を排除するような思想が少子高齢社会で加速していけばこれこそファシズムを産み出し兼ねません。ここで一旦立ち止まり、「ラベリング」が本当に正当なものなのかはたまた「ラベリング」をすること自体が正当なものなのかを常にフィルタリングしていこうと思います。

 

そもそも、ラベリングではなく、1人ひとりにセンシティブに向き合うことが今の社会では大切にしなきゃいけないことなんだと思います。