ふらふらちん日記

メンタルが弱い人のブログ

『フェミニズム』著者:竹村和子

大学の難しい講義で取り上げられるような、中堅大学卒の私には難易度高めの内容だった。

途中割愛している箇所もあるけれど、各セクションごとの表題に分け、頭の整理の意味も込めて自分なりにまとめてみた。

間違った解釈をしていたり、文字は読めるのに理解できない現象が起きていたりするけれど、これが今の私の実力なので許してください。

 

Ⅰどこから来て、どこまできたのか

【第一派フェミニズム

資本主義が台頭してきた近代では、性は善良な市民として役割を決定付けるものとして機能した。男性には外で働く役割が割り振られ、女性には家庭を守る役割が、また、国外の女性や外で働く女性はいかがわしいものとしての役割が割り振られ機能してきた。

近代の上記のような性規範を構築していった性分断の観念を著者は「ドメスティック・イデオロギー」と呼んでいる。

 

このドメスティック・イデオロギーを大なり小なり内面化したフェミニストたちによって、目に見える成果としては参政権獲得を得られたものの、その過程には女性の間でも階級的特権を持った女性にのみ暫時的に与えるかどうかで議論が紛糾したり、また、シャーロット・パーキンズ・ギルマンの小説「黄色い壁」(1892年)では女性が規範的な妻や母であることを強要することに疑念と反感をあらわにしたものだったが、1970年代を待たねば評価されず、当初は恐怖小説としての位置づけであった。

第一派フェミニズムでは、根本的な問題に近づくことは退けられ、未解決の問題は残ったまま、あるいは忘却されてしまった。

 

いや、「黄色い壁」が出てから100年以上経ってるのに、まだ私の生きている2020年もこの有様かと思うと、やるせなくなるな(汗)

 

【第二派フェミニズム

1960年代後半から、フェミニストたちは左翼躍動の波を味方に制度を支えている考え方自体に目を向けるようになった。「個人的なことは政治的なことである」という有名なスローガンは第二派フェミニズムの特徴を端的に表している(私ははじめてこのスローガンを知った(汗))。

 

左翼運動が70年代に入ると勢いが失われたのに対し、フェミニズムは今日でもなお活動の動きを止めず、着実に成果を挙げながら今日に至っている。当初はマルクス主義に鼓舞されたフェミニストたちだったが、マルクスの男性中心に考えられた労働・生産・余剰価値のなかでは、女性は家庭内の労働を無償で行うべきとするドメスティック・イデオロギーが発生していることを指摘した。参政権を得たことで女性に対する抑圧は近代以前よりも段階的に解消されてきたと錯覚しがちだが、資本主義社会が生み出した近代家父長制度は近代以前の性差別的な思考を強化・捏造しながら浸透していったのだ。

 

第一派ではドメスティック・イデオロギーから逃れられなかったが、第二派ではもう少し踏み込んで制度自体を問題視するようになったようだ。

 

ジェンダー

生物学的性差「セックス」ではなく、セックスの上に構築される社会的に作られた性差「ジェンダー」に着目されたのも第二派の時期だ。

ジェンダーへの私の個人的な見方なのだけれど、生物学的な性から逃れられる開放的なイメージを持っていた(身体は男性だけど心は女性とか、性別認識を個人に委ねられる余地を与えたものだと思っていた)が、この本を読んでジェンダーにも様々な問題があることを知れた。

 

ざっくり言えば、ジェンダーからの解放を追求すればするほど、「男」と「女」に二分化してしまう問題だ。ジェンダーのそもそも論にぶつかった私はけっこう衝撃を受けた。

でも、言われてみればそうだよな、と思う。だって、社会的に構築された「性」なのだから、生物学的性別に分ける必要がそもそもないはず。不平等に声を上げる際に「女の連帯」が組まれることが多々あるけれど、「女の」とすることで様々な問題が無視され、女に当てはまらない人、女同士でも階級差や人種差別があること、男の側の問題などが看過されがちになる。

 

精神分析から見た性】

まず、フロイトのあたりでつまずいた。エディフィスコンプレックスは大学時代にもさらっと学んだけれど、私が女だからなのか、西洋的視点から論じられているからなのか、ちょっと何を言っているのか分からない。

 

解釈に誤りがあるかもしれないけれど日本的に置き換えるなら、母親ベッタリなひ弱い「男」には家を継がせない、男というものは父親のように立派にならねばならない、みたいな感じかな。強くあろうと母親から自立し、母親ではない女性を手に入れ、父親のように家を守ろうとすることが男性的精神を作る、みたいな。

一方で「女」には家を継ぐ権利はないために(家柄や経済的に)強い男を羨望し、子どもに望みを託す家庭での献身的な女性的精神を作る、みたいな。

 

フロイトが自己形成の過程を分析したのに加え、ラカンは他者の視点を取り入れて発展させた。

本の内容がまとまっているので抜粋を載せておこう。

“他者の眼差しによって,すなわち自己の身体として社会によって差し出された虚像として,想像的に獲得する.わたしたちは自己の身体を,自己が参入する社会の〈言語〉にしたがって解釈するのである.身体がじつは自己形成のさいに言語的に構築される虚像である”

このラカンの理論をフェミニズム的に読みかえれば、“生物学的な身体の事実性(セックス)が,じつは社会的な言語によって構築されているフィクションでしかないことを明らかにするもの”となる。

 

生物学的な身体の性は結局のところ、社会が作り出した虚像だったとは!!この視点は私には無かったから驚いたけど、本当にそうだよね。子どもを産む時だけの問題じゃないんだもの。生きていると、至るところで必ず「性別の社会的概念」がまとわりついているのだから!!

 

セクシュアリティ

セクシュアリティという生物学的な身体性にもっとも密接していると考えられている事柄が,社会的・文化的な性差別によって「生産されたもの」である“ならば、“「男」の性欲望も「女」の性欲望も社会的な構築物すなわちジェンダー”だと捉えることが可能となる。

異性愛でないものも社会構築された欲望となるが、男女の異性愛と同一線上で語られるとするならば「レズビアン」も「ゲイ男性」も近代の所産となる。

 

男を普遍的・標準的なものとする近代の社会制度の中では、家庭内におさまる「女」という概念が必要だった。家庭内におさまる女に焦点を当てて検証していくと、外で働く男を検証することになり、二つの概念を必須とする異性愛を検証すると、異性愛の延長上にある非異性愛を検証することになり、性体制を構築している社会を検証することに繋がる。

(全然私の中でまとまってない…(汗))

 

Ⅱどこへ行くのか

【第 1 章 身  体】

〜1 身体的性差という虚構〜

“身体的な性差は,近代であろうと前近代であろうと階層的に,また人種・民族的に労働を搾取するときにはさして考慮が払われず,他方で社会活動へのアクセスが性差の別なく可能であるはずの制度のなかでは,身体的な性差が個人の弁別の最重要事項とみなされる”

一見この理論は正しく、今現在の女性を取り巻く労働環境にも通ずるものがありそうだ(女性の産休育休・時短勤務者に普遍的な男性労働者の生産性を求める等など、身体的性差は関係なく搾取の手が忍び寄ってくる)。

他方で、女性が男性社員の成績を抜いたなど成果が見られると、途端に「女性なのに」好成績すごい!という風潮が現れるのはなぜなのだろう。

 

それは、“セックスという虚構を「事実」とみなすために,わたしたちは,あたかもジェンダーがその事実の「うえに」構築されたものであるかのように,繰り返し繰り返しジェンダーを演じつづけ”ているからだろう。

 

「女性は男性よりも劣っていて当然」な社会の中で守られるのも尺に触る。女だから残業は22:00までとか(男は何時でもOK)。一方で、ちゃんと成績を収めているのに歪んだ評価になるのも許せない。

 

〜2 〈女のエクリチュール/身体〉のアポーリア〜

 

ここの項目で述べられていることのほとんどを理解できていない。最後の結論だけしか理解できなかったから抜粋のみ。

 

“男中心的な認識を介しているがゆえに,また既存の言語によって構築されたものであるがゆえに,転覆することが困難な身体の意味づけを,どのようにフェミニズムは扱えばよいのだろう.それは認識論や社会構築論そのものを,もう一度問いかけることである.”

 

〜3 形態論をめぐるフェミニズムの可能性〜

“何らかの新しい理想的な身体形態に向かって,差異を意図的に方向づけることはできない.そうではなくて身体形態の増殖は,個々の模倣や行為を条件づけている社会的・歴史的・状況的な事相が,錯綜した差異群を生みだしているということを意味し”、“いわば模倣の失敗の動的軌跡が,新しい身体形態へと”“わたしたちの身体を開いていくものとなるだろう.”

 

結論を抜粋して要約すると上記のようになった。

 

その他はあまり理解できていないので解釈が合っているかどうか微妙なところだけども、良き労働者であり良き母であろうと奮闘した私にまつわる例に当てはめてみた。

 

私は子どもを産み育休明けに職場復帰をした。日中は男性と互角になれるよう勤め、家に帰ったら母として子どもと触れ合い妻として夫と共に生活をしていた。悔しくも良き労働者として働きたい願望は挫折し、子育てママに多く見られるパートタイマーとして働いており、正社員としての模倣には失敗したが非正規労働者としての身体形態へと切り開いている、そんなところだろうか。

大したことではないんだけれど、文字にするとポジティブになれる。非正規になろうが低収入になろうが、絶対、厚生年金からは外れたくない精神で働き続けてやるからな。

 

【第 2 章 慣  習】

〜1 ジェンダー化され,ジェンダー化するハビトゥス

 

“女を「女」とみなすもっとも基盤的な根拠とされているものは,女の身体である.だが身体も,前章で述べたように,模倣によって得られる身体「形態」でしかない.”

 

形態でしかないはずなのに、今でもジェンダーバイアスが存在し続けている。医学部入試の女性を不合格にしていた件は「まさにこれ」な事件だ。同じ女であっても、女だから仕方なくない?って思っている人がいるからなおさら厄介だ。

 

解決にむけては「女が極度の緊張状態を経験せざるを得ず」また、一方で「自分自身の身体に深く刻まれた排除を承認するのをやめようとする努力」によって少しずつ認識を変えていく必要がある。だから、おかしいと思う事には積極的に声をあげたい。ツイッターでも良いから。

 

〜2 ホモソーシャルな公的領域〜

“男たちによって緊密に組織された公的領域は,それが緊密に組織されればされるほど,けっして同性愛的だとは解釈されないように,そこから男同士のエロスの可能性は追放される”

(同性愛的だと解釈されないようにって箇所はよく分からない。)

 

ホモソーシャルな男の領域は、性的要素を公的領域から排除し、私的領域のなかに局所化する”ため、男にとって「性愛性」を含意している女が公的領域に入ろうものなら、“「女の身体」として搾取したり,その身体を矮小化したり,脱性化したりして,やり過ごそうとする”らしい。

 

働く女性のイメージって、少し前までは独身で男勝りなバリキャリって感じだった。強い女のイメージ。まさに脱性化された身体。

 

女だからって男の同期より明らかに評価が甘いおじさんがいたり、女のくせにって馬鹿にしてくる人もいたり、マーガレット・サッチャーに鉄の女の愛称が付けられたり(男には付けないだろうな)、女が働くこと・成果を出すことに対してモヤる事象に出会う。

 

だんだんと色んな働き方が出始めてきて以前よりはマシになりつつあるのかもしれないけれど、まだまだな感じは確実に残ってる。

 

【第3章 グローバル化

〜1 境界によって分断される女〜

欲望を国内/家庭内の外に求め、性規範は身の回りに保持しておく男による偽善システムの中で、女は男の欲望によって搾取される側でありながら、国内では(広義の意味で)「国民」としての立ち位置となった。

 

戦時中、銃後を守る存在として訓練したり働くという国民としての責務を求められたり、あるいは、積極的に戦争に参加し軍隊に入ることを女側から望んだ。国が有事の際の女の活躍によって、戦後の社会的な地位が男に近いものとなったことは功績の1つだ。しかしドメスティック・イデオロギーの中で男並みになれたとしても、働く女はセクシュアリティ的に脱女性化されたり、他者を除け者にしておくような都合の良いリベラリズムによって利用された。

 

勝手な補足ー都合の良いリベラリズム実体験例ー

①子どもをダシにしてくるパターン

愛情のこもったお弁当が子どもや旦那には1番だって、弁当作りができない人に向かってあえて主張してくるマウント女。働いてる女や料理の苦手な女を馬鹿にし家庭的な慣習や女性らしさに縛り付けていたいのを子どもという守るべきものをダシにして主張してくる。保育園行かせて可哀想発言にも出くわす。男に向かっては言わないよね?

 

表現の自由を振り回し差別してくるパターン

最近、岡村隆史の風俗嬢炎上発言について、minmiが日本には寛容さが無いなどという擁護ツイートをしたんだけど、可愛い子を搾取できるのを待ち望んでるって発言はやっぱり許しちゃいけない。表現の自由を逆手に公衆面前セクハラを許しているのと同様。自由無くなるけど本当にそれでいいのかって主張をminmiはしているけれど、その自由は女が搾取されない立場になってはじめて主張できる表現の自由だと思う。

 

例えば、ニガーって言葉は差別用語だけど、映画とかで仲間内のフェアな立場でならニガーって呼んでたりするから、フェアになってから使える表現なんだぞって思ってる。今の日本の性差別状態じゃ、女性は圧倒的に男性のための性処理便器状態で全くフェアじゃない。

 

③またツイッターネタだけど、1人10万円支給が「世帯主」なのは明らかに個人を大切にしていない風潮丸見えなんだけど、子どもや専業主婦の分を支給するのおかしい論調があって驚いた。税金納めてない人が受け取るのは許せないみたい。色んな人が生きてるはずの社会なんだけど、完全な大人で完璧に働いてる男にしか権利ない社会なんだなとつくづく思う。ましてやコロナなら、正常から異常への転落はすぐそこなのにね。

 

女ってだけで分断された性規範の壁にぶち当たるし、完璧とされるものが男基準なのにも窮屈さを感じる。必要なのは様々なところにバイアスかかってることに気づくことだよなぁと思う。

 

以下の二つの項目が残ってるけど、力尽きたのでとりあえずここまで

 〜2 他者性の呪縛〜

 〜3    グローバル化フェミニズム

また後日まとめる予定…。

 

フェミニズムって勘違いされやすいけど、声をあげていくこと、自分にできることをまずはやってみることが大事なんだと思った。