『山の音』作者・川端康成を読んで

『山の音』は戦後文学の最高峰とされている作品だそうだが、諸所に女性や子どもの人権が希薄な様子が描かれていて気分を悪くしながら読んでしまった。

 

まず、自分の息子の嫁に恋心を抱く舅という設定が気狂いものだ。今の時代にこんな内容の小説が売り出されたら炎上することだろう。当時掲載されていた雑誌等のターゲット層の問題もあるかもしれないが、成人雑誌のコラム程度にとどめておいて欲しかった。

 

当時この小説を手にとり読んだ人たちはどんな感想を抱いたのだろう。主人公の心の動きに共感したのだろうか。どうか違って欲しいと願ってしまう。

 

ストーリーはとある一家の抱えるいざこざごとを描いたもの。メインの登場人物は、浮気と酒癖の悪い息子の修一と嫁の菊子、麻薬に手を染めた夫と別れ出戻ってきた娘の房子とその子どもたち、修一の不倫相手の絹子と不倫関係の暴露役となる会社で雇っていた英子、そして主人公の信吾とその妻の保子だ。

 

登場人物を紹介しただけで伝わるドロドロとした模様を、人情じみた生臭さを感じさせない滑稽さで描いているのには好感が持てた。しかし、人を容姿で判断するような描写には辟易してしまった。確かに美人であれば得をするだろうが、美人でないことをもって他人からとやかく言われ心に傷をつけられる筋合いは全くない。何の権利があって人を辱めるのだろう。

ましてや、自分の娘の房子に対しても「器量が良くない」と面と向かって言う様子は屈辱的だ。我が子を大切にするという当たり前のことが当たり前でない家庭環境が当時では普通のことだったのだろうか。

昨今、容姿に関してのお笑いにはシニカルな意見が出始めている。この作品が出てから半世紀ほど経ってのやっとの動きなのかもしれない。とにかく容姿についての描写は腹立たしいものだった。

 

また、中絶についての信吾の考え方についても快い気持ちにはなれなかった。

 

中絶に関する描写の概要はこうだ。

菊子は、不倫している夫に絶望してなのか夫の反対を押し切り中絶をしてしまう。それなのに、中絶した後で夫婦仲が良くなった様子が見られただけで、「次の子のときは大切に」といった言葉を信吾は菊子になげかけていた。それも、不倫相手が妊娠している事実を知りながら…。自分の息子の素行が原因のひとつであることは明らかなのに、嫁に子どもができることを期待するような声かけは、菊子に「家庭のあるべき姿」を作るよう圧力をかけているようなものだろう。

 

妊娠・出産に関して、男性側の無神経な言動が溢れている時代にどんなに苦しい思いをしながら女性たちは生きてきたのだろう。また、子どもを育てていく上で、子ども側の観点からは全く話がなされていないのを見るにつけ、大人の都合を子どもに押し付けていることに無自覚な、子どもを大切にする感覚が希薄だった時代の様子が伺えたように思う。

 

女性や子どもを蔑ろにしてきたのはそんな昔のことではないという事実を、この作品を読んで改めて感じた。