『月経の人類学』を読んで 

「生理用品の質的向上により女性の社会進出が進んだ」というのは『生理用品の社会学』を読んで知った気になっていた。

 

けれど、これは清潔な水へのアクセスやプライバシーが守られるトイレ、そして使用済み生理用品の廃棄処理という様々なインフラが経済成長と共に順よく整った日本だからこそ、生理用品に焦点を当てた進歩が際立って注目されるのかもしれない。

 

今まさに発展の途上にある国ではインフラが整っていないことはもちろん、使用済みナプキンの経血に呪術をかけられて死んてしまうという伝承があり気軽に捨てられない(ナプキンを洗ってから捨てるか、見つからないようにビニールで隠して捨てる等)という文化的側面や、生理用品がお店にあっても経済的理由により潤沢に購入できないという状況から、満足な衛生管理ができていない。

 

複数の発展途上地域に同様の問題がみられるため、生理用品の質的向上だけでは女性の社会進出はあり得ないと言える。

 

ならば、先進国である日本であれば満足のいく状態か、というとそうでもなさそうだ。「生理の貧困」という言葉が産まれたように、生理用品に万足にアクセスできないケースが実在する。自力で収入を得られない児童・生徒の場合は特に深刻な問題となっている。

 

また、女性であれば誰もが向き合わなければならない生理現象だが、学校で教わる内容では生物学的に学ぶのみであり、多くは家庭での伝授にまかせている状態にある。

 

父子家庭となれば、何時間ごとにナプキンを替えるのが良いのか、洗い方はどうするのか、入浴はすべきなのか、生理用品の種類や使用方法や外性器の具体的な形状や自分の身体のどこから経血が出てるるのかも知らぬまま初経を迎える場合もあるのは容易に想像がつく。たとえ母親や女性の親類がいたとしても、その人の価値観や経験(異物を腟内に入れることに抵抗があるためタンポンの存在や使用方法が伝授されない、鎮痛薬の使用や病院の受診の経験がないなど)によりバラつきが出てしまうため、公教育で実践的な面まで学べるのが望ましいと思う。

 

また、本書にも取り上げられていた通り、日本の学校のトイレ事情や清掃方法があまりよろしくないのは自分の経験で察しがつく。小学校を卒業してから20年近く経つが、未だに和式が多いのには残念でならない。そして、小学校までは生活の術を学ぶところでもあるから掃除は必要な学習過程かもしれないが、中学・高校になると学業がメインになり、特に高校は義務でもないのだから学業に専念させてほしいと思ってしまう。

 

今後、私の娘が生理を迎えたとき、父親との関係はどうなるのだろうか。思春期で難しい時期だからこそ隠したいのであれば尊重したいし、隠したいという羞恥心がないくらい、普通のこととして受け入れられるように土壌を作っていきたい。

 

私は布ナプキン愛用者なので、生理のたびに私の経血を娘が目にするのだが今のところ血に対する恐怖心は持っていないようだ。だが、「男の子の方が良かった。血が出ない方がいい。(温泉やプールに入れないのが嫌だから)」といった発言が出ているので、しっかりとネガティブイメージは付いている。ネガティブなことだと思うので、特に否定もしないのだが、女性でいることに否定的にはなってほしくないというか、うまく折り合いがつけられるよう手助けはしたいなと思っている。

 

生理の説明はいつかはきちんと話さないといけない話題だが、何歳の時にどんな内容を説明すべきなのか、学校で学ぶ内容含めて親自身が分かっていないのを改めて指摘してくれた本だった。