『夢みる教養』を読んで

勉強(教養を身につけること)って何になるのか常に疑問を抱えてきたし、大人になった今でも何のために学ぶのか私のなかで答えはみつかっていないし、その答えが書いてある訳ではないとこの本の中でも述べられている。

 

「教養」という言葉自体が時代と共に変化していることや、今でも1つの意味ではなく「役に立たないが生活を豊かにする知識とか、だれでも知っているべき一般常識まで、さまざまな意味内容を含んだ混沌とした概念である」(P.9)ことが、教養や学ぶことの意味をあえて追求したくなる所以なのだろう。また、教養には「今・ここからほんの少し脱出させてくれる魔法」(P.10)の作用があり、自分に安住できずに〈何か〉を求めてしまうものでもある。学べば学ぶほど賢さが増すのみならず、地に足の着かないふわふわした夢見がちな印象をも含んでいる。

 

今も昔も(おそらくこれからも)「教養は身につけるべきもの」という前提がある中で、教養に振り回された(特に女性たちの)「実現されない夢の構造」を解き明かすのがこの本のメインテーマだ。私も振り回されている側なので、はじめにの部分だけでとても興味深い。

 

教養の内容がその時代によって移り変わり、今まで推奨されていたものが批判の対象となっていくのも面白い。明治〜大正期の移り変わりで気になったところを下にまとめとく。

 

【教養の移り変わり】

大正期に出てきた教養主義(人格主義)は、大正ロマンの華やかなイメージを彷彿とさせる。実際に、明治期にはなかった(抑圧されていてないことになっていた)思想が出てきたのが大正期なのだろう。

 

特に、それまで古文書をその当時の読み方で読む文献学に重きを置いていたことが見直され、今も昔も変わらぬ普遍的な情景に想いを馳せることができるようになったのが大正期。(森鴎外舞姫は文体が漢文で理解しにくかった。言文一致が進んだのも明治末期から大正期だから、色々変わっていった時代なのだろう。)国語教材が現代を生きる己の心を見つめる材料として選ばれていき、その流れは、女学校にも受け継がれていった。

物理的にも女性の進学率は拡大し、普遍的な人間としての平等を読書の上では実現させることになったのだが、ここで教養が万人にとって平等になったのではない。女性だけ取り残される社会的な歪みがあった。

 

吉屋信子の『暴風雨の薔薇』では、「外国語、音楽や絵や文学を理解する芸術心、教育に関する専門的な知識や理論、自活する凛とした姿勢や、不倫を思いとどまる理性」など、女性の理想像が主人公の澪子に描かれている。この良きヒロインの条件は結婚相手として選ばれる女性向けのものに限定されているとも言え、この美点が高等女学校のカリキュラムとほぼ対応している。

 

役割分業意識の強い社会では承認された範囲内でしか普及せず、そのカリキュラムは良妻賢母な内容に重点が置かれていたが、人格主義が流れ込み一人の良い人間になることが大切であるとされ、限定的ながらも女性の教養(教育)は受け入れられていった。また、『暴風雨の薔薇』よりも前に書かれた『地の果てまで』は、男性で尚かつエリートしか立派な「人間」になれない矛盾を描いた小説であるが、ここでも女性が教養を身につけることが一般に受け入れられていった変化が見られる。

 

しかし、大正後半になると、一世を風靡した人格主義が批判にさらされることとなる。

 

社会主義の台頭によって「人格主義は、個人にのみ関心を持つものであり、また書斎に閉じこもることは経済的な条件の上にしか成り立たないと批判された」(P.59)のだ。

 

しかし、机上の教養が批判されたとはいえ、女性の教養は机上のものや書簡の中だけの職業に直結しないものの範囲内にとどまらざるを得なかった。先に触れている『暴風雨の薔薇』の中でも良い奥さんという社会から切り離されたところでしか花開かないものだった。

 

それは、1937年刊行のキャリア志向のお姉さん誌『新女苑』にもあらわれていている。

読者投稿の作品をプロの作家が論評するコラムを設けた新女苑は、その作家に川端康成を起用した。当時、女性の作家への道は閉ざされていたため、投稿によって作家からコメントがもらえるとなれば貴重なアピールの場であり、人気があったようだ。

 

川端はそこで好みの作品を選ぶのだが、彼は女性の文章に純朴さ、素直さを求めていた。職業小説や恋愛小説、小難しいものは非難の対象とされ川端の思い描く理想の女性像でなければならなかった。

書くこと自体が花を活けるように慎ましい生活の色どり以上であってはならず、書き手の職業化も阻害するものであった。さらに彼は、これを「ほんとうの教養」とのべているのである。

 

(前から作品読んで思ってたけど、川端康成、心底気持ち悪い。)

 

教養が大衆化を見せる一方で、女性だけは未熟であれとの教訓故に、出た芽を切られていた。

 

【女性は別階級】

野上弥生子の小説『真知子』の解説の中で、

「女性というのが、階級一般には解消されない、別の階級」であるがために、真知子は左翼運動をしていた恋人の関に完全に寄り添うことができないとあった。

左翼運動は弱き人のためにあるものだと思っていたけれど、結局運動自体男性が主導となり女性はその中へは入れないものだった。

 

戦争により、以前よりも女性が職業に就くようになったが、その活躍はあくまでも男性の穴を埋める便利な存在でありいつでも排除できる社会構造は変わらなかった。

 

1936年発行の『学生と教養』の中で野上弥生子の文章も収録されたが、「母さんは」とイタリアへ留学する息子に向けた書簡の体で書きつづかれたものだった。時代が時代だからというのを含めても、母親としてしか女性の教養が受け入れられていないことが如実にあらわれていて悲しくなる。

 

【高度経済成長の中で】

1970年代は専業主婦が最も増えた時期だそうだ。男は働き、家は女が守るものとして分業化が進んだ時代だ。

その頃の教養はどんなものだったのか。

 

良い奥さんとして習い事に行くような「カルチャー文化」は、子育てをする専業主婦の生活リズムとも相まって根付いていった。と同時に、大学へ進学する女性も増えた。職業との結びつきを持たず「役に立たない」文学が教養として受け入れられていった。

けれど、経済成長へ重点が置かれ始めると、たちまち「役に立たない」文学を学ぼうとする女性たちが疎まれることとなる。慶應義塾大学の偉い人でさえ、大学を卒業しても企業へ就職しないことを憂う言葉を発してしまう。「役に立たない」文学は、企業に務める上でも役に立たないはずなのに…。働く男のために大学の席を開けておきたいという考え方には、女性は家庭の中でおとなしくして社会に出てこないで欲しいことの現れとも言える。

 

経済成長が見込まれた時代には、働くことに夢があり、女性が働くことは贅沢とも取られるほどであった。経済成長が衰退してきた今では男女関係なく働かざるを得ないはずであるが、今までの価値観が無くなった訳ではない。女性には家庭を守り子育てをする従来通りの女性の生き方が求められる上に、経済力をも求められるようになっている。先の戦時中、女性が仕事場へ駆り出された時代があったが、女性は都合良く遣われる臨時の、いつでも排除可能な労働力であった。令和を迎えた今でさえ、非正規雇用が圧倒的に女性である状況を見れば、過去と同じようにいつでも排除できる都合の良い労働力でしかないと言えるだろう。

 

話を教養に戻すが、『夢みる教養』を読み、女性が教養を身につけることで立ちはだかってきた壁を見てきた。教養を身につけることの意味は時代によって変化し、これからも変わり続けるだろうが、今の私の教養を身につけることの意味に、少し方向性をつけることができたように思う。それは「考え続けること」、そのための「教養」なのだと私は思う。

この場で安住せず、常に考え方のアップデートをしていきたい。