『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』を観て

【鑑賞のきっかけ】

安倍元総理が山上氏に殺害された事件後、Twitter上では「言論の自由」「暴力反対」の声が沢山流れていた。その幾重にも流れるツイートの中に、言葉に力があることを感じさせた作品としてこのムービーのことがつぶやかれていた。

 

ナチスソ連関連の歴史映画を観ていたせいか、当作品はアマゾンプライムのあなたへのおすすめ欄にも出ていて存在は知っていたが三島由紀夫を知るツールとしていつか観ようと思っていたくらいの関心だった。今回の事件を機に「言論」という点にも着眼して観ることにした。

 

【ここからが感想】

学生も三島由紀夫も自身が望む世界を手にすることへの熱意が今の時代と全く違っていた。自己のあり方と世界のあり方をとことんまで突き詰め、その実現には暴力をも厭わず単なる既存の権力を得る争いではなく、1から人間社会を作ろうと解放区を獲ることに本気で試みた貴重な時代だったのかもしれない。

 

討論の両者とも東大というエリートそのものなだけあり、何を言っているのか途中凡人の私には理解できない箇所が多々あったけれど、ところどころ解説が入るので助かった。ありがとうTBSさん。

 

戦争が終わっても再び天皇制を望む、当時でも特異な三島由紀夫に関して彼の死生観に触れた解説がとても分かりやすかった。彼の青年期は国と天皇と自己が完全に一体となっていた時代と重なっており、同時代を青年として生き延びた者の多くが神から人間になった天皇や、敗北した日本という現実に自己を照らし合わせる中で「なぜ生きているのか」「これからどう生きれば良いのか」と路頭に迷う者が多かったようだ。

 

東大生との討論でも、「日本ないし天皇がなければ三島はなくなるのか」という質問に対し、理論でいえばそうだが天皇についてはこれはもう「意地だ」と断言していた。本当に日本という国、天皇という存在が彼にとっては生きる目的そのものだったのだろう。それが後の自決につながるのだから、このときすでに決意はあったのかもしれない。

 

東大生と三島由紀夫とでは、左翼と右翼の真っ向から対立する立場にあるが、共通する点を両者共に認め合っていたところはとてもおもしろい。言葉はぶつけ合うことで自他共に論理的でない部分を見つけそれを補正し定義し直していくことができる。また、全く理解できない領域も見つけられる。

解説者が素敵なことを言っていた。「社会を変えるには必ず言葉が必要になる」と。

 

令和の今、言論は自由な装いをしているけれど、東大闘争の頃のような熱量はなく、か細いろうそくの火を見るかのごとく辛うじて灯っているような状態だ。統一教会が政治に絡んでいるようだが、宗教が政治に絡む日本とは一体どういう国なのか、言葉での定義が必要だろう。