仮面の告白を読んで

30歳を手前にして、初めて三島由紀夫の『仮面の告白』を読んだ。

 

仮面の告白の前に、「音楽」と「潮騒」を読んでいただけで、三島由紀夫については綺麗な言葉を巧みに操る文豪で、その最期は割腹自殺した変人くらいの認識しかなかった。

 

そして、最近、三島由紀夫の最期に焦点を当てた映画『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』を観て(映画としてみると諸々ショックを受けるクオリティーなので、三島由紀夫の再現ドキュメンタリーとして見ることをおすすめする)、もう少し三島由紀夫という人物を知りたいと思い、『仮面の告白』を手にとってみた。

 

幼少期からこの作品を出した20代前半までの彼自身がモデルとなっていると言われている作品には、彼の独特な思考や死生観に触れることができるだろう。

 

特に彼の死生観は、かつて私が生きることが辛かったころの考え方に共通するものを感じた。勝手に共通すると解釈していることは畏れ多いながらも、「生きづらさ」が根底にある生き方は、必然的にそれに比例して「死ぬこと」へ淡い羨望を抱くことに繋がる。実際に彼は、生きることの辛さや彼自身の存在そのものの虚無は、戦死することできれいさっぱり「清算される」ことを望み、45歳にして実行に移すのだから…。

 

死への羨望は、戦争という時代背景に後押しされしっかりと根を張り彼の心から離れることのない彼自身の考え方となっていった。

 

しかし、三島由紀夫は、肝心の戦場へは送られることなく終戦を迎えてしまう。日常に「死」のない平和が訪れ、喜びを感じることが「普通」であるはずだが、彼の場合は平和よりも何よりも、これから日常を「生きていかねばならない」という現実が彼の上にのしかかり、生きることへの恐怖心の方が勝っていた。

 

また、性欲について、自身の女性に対する不可能性は、肉体的にも人間として欠陥している事実を受け入れなければならないという苦しみがあった。

 

精神的にも肉体的にも「普通ではない」ということが、戦中戦後の時代背景と照らし合わせてどういうことを意味しているのかは想像でしかないのだが、今現在でさえ偏見や差別が顕著なことを考えると、相当悩んだことだろう。常に周りの目を意識し、自身の行動を外から見ているような感覚で過ごした思春期〜青年期は、心休まる隙もなく、彼だけを置き去りにして周囲が変貌していくことについていくのが精一杯だったのではないだろうか…。

 

仮面の告白』は、三島由紀夫の心の根底にある苦悩に触れることができる作品だった。