『家』著者:島崎藤村 フェミニズムな視点からの感想

親の代までは繁栄を遂げていた旧家出身の島崎藤村。彼の名前と彼がキリスト教徒であることくらいしか知らないまま、本書を手に取り彼の生きてきた軌跡に初めて触れた。

特に、藤村の姉のお種が、今もなお女性が生きる上で足枷となっている重圧の中で生きていたのが印象に残っている。

 

今も藤村が生きていた時代も「お金を稼ぐ」ということが大変なのは相変わらずで、金の切れ目が縁の切れ目となるのも世の常であった。人を雇い皆から慕われていた旧家の当主に嫁いだお種であったが、ある日、あてにならぬ事業と浮気相手の女に注ぎ込んだ借金を彼の息子や藤村を含む弟らに託したまま行方を晦まし、終いには満洲へ出稼ぎに行くしか道が無いほどに落ちぶれてしまった。お種の息子も家の事業を窮地から救わねばならぬ身ではあるが定職を持たず転々とし、妻がいながら向島の女に夢中になるなど、父親と同様に幸せな家庭を築けない男であった。

 

当主が懸命に事業を担い家庭をしっかりと守っていた頃もありお種は旧家の妻として夫の浮気にも目を瞑り、家庭を影で支えることに尽力していた。その甲斐も虚しくあっけなく裏切りにあってしまったが、彼女は当主が帰って来た際に面目が立てられるよう彼の帰りを待つことで旧家のために精力的に尽くすことを選んだのだ。

彼女の描く生きるべき道は「影で家庭を支える」ことに終始し、家業の経営には全く関与せず借金が膨らみ経営が傾いているにもかかわらず、自ら何とかしようと行動するでもなく当主の帰りと息子への期待ばかりを膨らませている姿は滑稽であった。

 

廃れゆく旧家を目の当たりにしながら、過去の栄光を夢見ながらただただ置かれた状況に流されるままの彼女の没落振りを見ていると、何とかできなかったのだろうともどかしい気持ちになった。藤村自身も家族として姉の心配し、もっと別の道はないものかと考察する場面があるのだが、お種に行動を変えてもらいたいと願うことは、理想の女性像の重圧が自己責任として完結させ「重圧はなかった」かのように片付けることに繋がりかねない。お種が直面した問題を可視化するならば、①旧家の破綻は夫の放蕩が成したことの顛末であり、②同時に襲ってきた日本経済全体の不況であり、③旧家の女性像を無意識的に強制されていたこと、の3つに分けられるだろう。

 

追い打ちをかけるような目まぐるしく変わりゆく経済状況の中で、半分溺れながらもがくことしかできず、ひたすら旧家ならではの過ぎ去った栄光にしがみつき苦しみを自己の生きる糧としてさえいるような彼女を、私は真っ向から責めることはできない。

 

私自身も無意識でいると何かと自己責任に集約してしまいがちだから注意しよう。

昔の小説と思って手にとったけれど、現代にも通ずる問題がそのまま残っていることに気付かされた小説だった。